思いの屈する日 シナリオを書き換える

思いの屈する日は多い

しかしまた
支えてくれる人もいる

自分は支えられているという感覚は
人生の原初の感覚の一つだろうと思う

そこに人生シナリオの最初の一ページがある

人生は舞台で
それぞれの年代で
それぞれ別の人を相手に
ほぼ同じシナリオを繰り返す
 
シナリオを書き換えることは
一人では難しいが 
誰かと協力して
できないこともない 

悪いシナリオならば書き換えよう
人間が最初のシナリオを自分で選べないのが不合理なのだ

自分にとって幸せなシナリオを
自分で書いていい

ーー
ここでいうシナリオはたとえば
よく知らない人に出会うと過剰に期待してしまい
とても幸せな時期が訪れる
そのあとでその人に関して幻滅を感じる時期が来て
最後には決定的に

ーー
シナリオを書き換える自分と
書かれる自分が同じなので
ここに大きな問題がある

書き換えようとしたその瞬間に
古いシナリオが出動してしまう

多くの人が挫折しているのはその点だと思う 

ーー 
最近の例で言えば
ハードディスクの書き換えをやろうとしても
書き換えを命令するその部分は残ってしまうという難点がある 

そのため、書き換えを命令するとか、丸ごと全部コピーするとかといった
命令部分はCDROMに作っておいて実行することがある

そのような状態に似ていると言える 

自分で自分を書き換えようとしても
書き換えを命令している部分は残ってしまう 
そこの部分を解決しようというのが精神療法である

自分が書き換えられる部分については
読書でも
先輩の話でも
自分の日記でも
何とかなると思う 
 
日記が特に効果的だと思う
書いて、折に触れて読み直すこと 

また、先輩の話は現実の人間の口から語られるので強烈だが
反発を含むこともある
その点では
同じ意味内容を読書で伝えられるのがソフトで効果的だと思う

読書ではその意見を聞くも聞かないも
取り入れるも取り入れないも自分の自由であり
容易になかったことにできる 
自分に決定の主体が残る点が大きい