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四月の花たち
夢から覚めても
また別の夢
四月の花を
何度も揺り起こす
春の風が好き
海からの風が好き
でももっと好きなのは
あなたの言葉
あなたの愛の言葉

ーーーーー
Jul 29, 2006
La petite Lili

gyaoで「リリィ」(La petite Lili)を見た。
クロード・ミレール監督。原作はチェーホフ「かもめ」。
美しい人が次々に登場、美しい自然、絵画と音楽、どれもよい。筋立ては原作を応用してさらに味わい深い。日本の能楽を連想。
リュディヴィーヌ・サニエ、ニコール・ガルシア、ジュリー・ドバルデュー、ベルナール・ジロドー、ジャン=ピエール・マリエール、ロバンソン・ステヴナンなど出演。

やはり、人生は苦い水である。

Last updated Jul 29, 2006 7:43:54 PM

ZERO LANDMINE

N.M.L. – ZERO LANDMINE (Full version,Live)

貧困、飢餓、暴力、戦争、地雷、環境破壊、攻撃性

N.M.L. – ZERO LANDMINE 04:58 version

真剣に考え
深く感じたいものだ

左脳がつくった社会がこれだ
これでいいはずはない

人殺しの命令を受けたら
いやだと言える人に

インタビューで坂本は語る
「今まで左脳の音楽をつくってきた
でも
老人性エレクトリニカがいい
すぐ忘れる
覚えられない
くどい
しつこい
ミニマリスト」

人殺しの命令なんか
忘れてしまう

Last updated Jul 29, 2006 2:47:16 PM

Jul 28, 2006
アントニオ・カルロス・ジョビン

カーザ – モレレンバウム2 / サカモト
モレレンバウム夫妻(パンダ・ノヴァのメンバー)はかつてアントニオ・カルロス・ジョビン(トム・ジョビン)と一緒に演奏していた。そのMorelebaum夫妻とあの坂本龍一が、ジョビン愛用のスタジオとピアノを使って演奏し、彼に捧げたオマージュ作品。
そのlive版。オマージュと紹介されていて、なるほどと思う。歌詞がいいのでとても好きになった。大貫妙子を連想する。

眺めていたら、外交官で詩人、ジョビンやカルロス・リラ等の曲の共作者としても有名なヴィニシウス・ヂ・モラエスという人がいて、驚嘆。

Last updated Jul 29, 2006 03:16:56 AM

Jul 23, 2006
ボサノバ聞き比べ

カルロス・ジョビン

坂本

ジョアン・ジルベルト

Morelenbaum2 Sakamoto – A FELICIDADE (Live)

アントニオ・カルロス・ジョビン(トム・ジョビン)のFelicidadeの歌詞より。

悲しみには終わりがない
でも
幸せには終わりがある

悲しみには終わりがない……

Last updated Jul 29, 2006 7:53:07 PM

Jul 20, 2006
携帯入力は左手でと提案

一方の脳半球で機能不全が起こった場合、他方の脳半球で機能を補うことができれば、大変有利である。
たとえば右片麻痺が起こった場合に、右利きの人は大変苦労するが、左利きの人は比較的リハビリが楽である。
若い頃から両手が器用に使えるようにしておけばいいのであるが、そんな面倒なことも言っていられない。いまさら左手で箸を使う練習など、よほどの動機がなければしないだろう。
しかし携帯入力はまだ始めたばかりという人も多いだろう。右でも左でも、あまり差がないのではないか。
だとすれば、積極的に、「携帯は左手で」、と決めれば、自然に右脳運動野の訓練になる。
脳トレーニングで素早く計算したりするのも大変よいが、この方法もよい選択かと思う。
脳の未開発部分を訓練できる。

Last updated Jul 20, 2006 7:54:22 PM

Jul 17, 2006
抱朴子 より

牛の蹄のあとの水溜りで泳いでいる、一寸ばかりの
ぼうふらは、天下に広い四つの海があるなどとは
夢にも思わないであろう。
果物のたねの中を匍い廻っている、針先ほどの木食い虫
は、世界はこれがすべてだと思うであろう。
彼らに果てしなき海ばらのことを告げ、
宇宙がいかに広いかを教えようとしても、
嘘だと思って信じようとはすまい。

世間の人は自分の臆断を信じ、自分の短見にたよる。
今まで積んできた知識に慣れて、
見なれぬ物を怪しむ。
(抱朴子 より。仙人の道を説く一説)

実際、これが人間の限界である。
原理的に知識と感覚の限界である。

Last updated Jul 17, 2006 11:39:20 PM

Jul 16, 2006
その黒髪の筋ごとに

本歌

黒髪の 乱れも知らず 打ちふせば まずかきやりし 人ぞ恋しき 

(後拾遺、恋三)和泉式部

本歌取り

かきやりし その黒髪の 筋ごとに うち臥す程は 面影ぞ立つ 

(新古今、恋五)定家

Last updated Jul 17, 2006 01:19:18 AM

山羊は永遠を見つめて佇む Jul1の絵について

間接的知人であるOさんの絵を紹介する。
知人の知人であるから、わたしは個人情報をよく知らない。知人はわたしに「おもしろいよ」とだけ言って絵を数枚くれた。わたしは驚いた。少しだけ感想を述べた。そのあとで知人を通じてブログ掲載への許可をもらった。
ここで述べる自由な感想についてはOさんは知らない。気に入らないかもしれない。

数枚の絵について全体としての感想

ワーグナー的
決してバッハ的ではない
色を付けたら現実世界に近くなった
鳥の羽、魚のしっぽなど、人間と生物との融合
人間と鳥、人間とトンボ、鳥と機械の融合
解剖学的
ダビンチ的
胎児は系統進化をたどる
過剰な装飾→過剰
どの少女も痩せていて、脂肪がない。たぶん、月経もない。→欠乏
過剰を方法として欠乏を描いている。

掲載の絵についての感想。

中央に年老いた山羊。耳は不自然にとがっている。それは臨界点を超えたしるしである。悲しい瞳。蛇。そして逆さの鳥。この三者は年老いた知者をあらわすだろう。そしてその手前に座る白い少女。白すぎる。そして関節部分には出血斑のようなものがある。白血病を感じる。右足は池につかり、その先は魚になっている。少女は悲しい瞳で左手に百合の花を持っている。ユリは花、茎、根まで描かれている。
画面手前には天使が飛んでいる。この少女の羽はトンボの羽である。緑のリボンが誘惑をあらわしている。
画面の奥に洞窟がある。洞窟の奥には光があり、そこでは若く美しいソクラテスが活躍している。しかし洞窟の内部は暗く悲しく沈んでいる。
知性は終末を結論した。それ以外に運命はない。ゆえにソクラテスの華やぎは虚しい。
神々の黄昏である。老人は過剰な知恵を持つものの、その過剰さゆえに、この美しい少女を荒々しく蹂躙することができない。少女の欠乏を補うことができない。ただいつまでも愛撫を続けるだけである。終わりがない。ウサギ。このウサギがそれを見ている。不思議の国のアリスが見ている。
少女には脂肪がない。乳房は微かである。神々は成熟する一歩手前の肉体と精神と合一することができず、ただ黄昏れている。少女の頭の周りには緑色の浮遊する何かがある。それは魂なのか罪なのか。いっそ蹂躙してくれれば罪も消えるかもしれないものを、そのように少女は泣いている。山羊と蛇と鳥はただ視線で犯し続け、指先で犯し続ける。ウサギはその一部始終を見つめている。そしてなお、それなのに、洞窟の外ではソクラテスが輝かしい知性を振りまいている。
樹と樹は枝でつながり合い、魚と少女はつながり合う。
融合と拒絶。光は洞窟の外にだけある。しかし老いた知性はそれを悔いることもない。ただ虚しく循環する時間を見つめている。最高の知性は虚しい循環を永遠に生きる。それは終末と同じことだ。永遠と終末は同義である。
Last updated Jul 04, 2006 11:56:54 AM

http://steel2.sakura.ne.jp/cyndi/m1.html

Jun 24, 2006
補聴器機能付き音楽携帯の開発 [ カテゴリ未分類 ]
携帯ウォークマンと補聴器とシニア向けインターネットチャンネルについて
最近は若者が携帯電話にイヤホンジャックをさして、音楽を聴きながら、画面を操作している。両耳にイヤホンを入れて、外機を調整するのは、まったく補聴器と同じである。イヤホンをして、機械を胸ポケットに入れている外観は、若者と高齢者は同じである。

このことからすれば、「かっこいい」補聴器生活が始められるのではないか。電車で、隣に座っている若者と同じように、イヤホンをして、胸ポケットから出ているコードの途中にあるリモコンを調整する。ただそのリモコンには「拡声モード」が付加されている。現在の技術であれば、ある特定の周波数帯域を強調することも簡単だ。何よりすべての部品をウォークマンおよび音楽携帯と共有化できるのである。望まない高齢者には画面の操作もメールも必要ないように設定すればよい。箱だけ携帯と共通にすれば、かっこいいし、コストダウンにもなる。

異和感のない補聴器が出現する。

また、今後はシニア放送局を用意して、聞いていただき、老人はときにハードディスクで録音して音楽を聞いたり、ゲームをしたり、ニュースをチェックしたりする。能力開発ソフトに時事問題なども加えて、ゆっくりと反復する。

特別機能としては、ゆっくり話す機能がある。音程をそのままにしておいて、時間を1.3倍程度にゆっくりにすればよい。

CM早送り機能はついていても、ゆっくり機能がついていないビデオは多い。ボタンをひとつ押すと30秒先に進む機能はよくあるが、これと逆に、聞き逃した部分を何度でも再生できる30秒巻き戻し機能があればいい。現在も、語学学習用の機械には、30秒リピートなどがついている。

以上のような補聴器機能付き音楽携帯を開発し発売すれば、アップルを軽くしのげると思う。

Last updated Jun 24, 2006 08:58:11 PM
Jun 10, 2006
苦い物語

君が一笑すれば
百の花がこぼれる

甘い瞳の奥に
苦い物語がある

不思議なことに
大人になると
苦いものが
好きになる
Last updated Jun 10, 2006 11:51:54 PM

Jun 9, 2006
a short-term pessimist and a long-term optimist

While he is a short-term pessimist, he remains a long-term optimist.

わたしはかくありたいと願う。

Last updated Jun 9, 2006 09:31:32 PM

Jun 8, 2006
Be realistic:Attempt the impossible.

Be realistic:Attempt the impossible.

graffito at Sorbonne
noted by Mortimer Adler
An Agenda for 21th Centry 所収

これはわたしの好きな言葉となって現在に至る。

Last updated Jun 9, 2006 12:06:45 AM
Jun 6, 2006

雨の日々が始まる前、あなたから十通ほどの御手紙をいただいた。細やかなお心遣いの伝わるこころゆかしい御手紙を受けとるたびに、あなたは女性にお優しいかただとは知りつつ、また、わたしなどお遊びの相手にも不足だろうと思いながら、当時のわたしはなぜだかあなたのことを思っているうちにたくさんの短歌を作ってしまい、その中で差し障りのないようなものを二首選んで、手紙にしたためて返事をした。あなたからの御手紙は白檀系の香りが微かだった。お返しのわたしからの手紙にはムラサキツユクサの薄い色を広げた。わたしは筆は苦手なので女御にお願いした。それほどに自信のない女だった。

つまらない歌と思われたはず、それきりで忘れられたもの、と思っていたら、ある夜あなたがお連れの人とご一緒にわたしを訪れたのだった。あなたはわたしのような目立たない女と気を遣わない時間を過ごしたいと気まぐれに思ったのだろう。月も出ていない夜だった。

夜は終わり、気がつくと雨だった。眠るはずなどなく、意識がすこし途切れていたらしいのだった。夜のうちに月もない夜と思ったのは、かなり曇っていたからだろうと思い至った。
あなたは連れの者と語らい、空の様子からすれば、あと小一時間ほどで雨は上がるだろう、それまで出立はのばそうと決めたようだった。
雨の多い季節にわたしを訪ねてくださったことをこころから感謝した。小一時間の贈り物だった。何をしてもさえないわたしに、雨は恵みをしてくれた。

あなたは雨を待つとは言わず、この庵を立ち去りがたく思うなどとつぶやいてくれた。

わたしのせいではなく、雨のせいで、あなたはここにいる。

それでいいのだった。それでうれしかった。ただ一度の逢瀬としても、そしてそれがわずかにのびたのはただ雨のせいだとしても、それでもわたしはうれしく、あるだけの自分を献げたのだった。

あの人をひきとめているのは

わたしではない

そのあとしばらくわたしは長雨とあじさいを親しく思い、後年に至っては雨とあじさいをわたしの守り神と思った。あなたとのことは一度きりゆえに忘れがたい思い出となった。
いまは出家して仏に仕える身となりながら、雨の季節には、まだ娘だった頃の羞じらいまでも思い出せるのだった。まぶたの裏を走った光のようなものを思い出すこともある。みな、あなたゆえのことだ。わたしのことなどお忘れになっているはずのあなたゆえのことなのだった。

Last updated Jun 6, 2006 12:43:45 PM

偉大な人間

「すべての偉大な人間は

自己の理想を演じる俳優である」 出典不明

Last updated Jun 6, 2006 06:34:42 AM
Jun 5, 2006
実在(reality)

実在とは何か。

わたしが実在(reality)という言葉を使う時、何を意味しているか。

わたしたちは感覚器官を持ち、対象を感覚している。五感と言う。それで世界のすべてを認識できるかといえば、そうではない。

それを六感や七感に増やすことは難しい。

減らすことならできそうである。たとえば視覚の欠如した感覚世界を想像できる。実際にそのような世界を生きている人もいる。

そのことを考えて、反転させれば、たとえば七感による世界認識を仮想することができそうである。そのようにして、対象のすべての性質を抽出したとして、それがそのまま、対象そのものであり、「ものそのもの」であり、実在である。

わたしたちは実在の性質の中の、五感で感覚できるものしか抽出していない。その意味で、わたしたちは「ものそのもの」にはたどり着けない。いつでもすべての性質の中の一部分を抽出しているのみである。

言葉のひとつひとつに色がついていると表現する人は、より実在に近い認知をしているのだろう。

Last updated Jun 5, 2006 01:31:16 PM

詩・短歌・俳句の作り方

詩・短歌・俳句を作る方法

言葉をプロックのように組み立てて積み上げる。
ことばにはそれぞれ、意味、イメージ、音、形、色、香り、などの性質があり、それらの配列が詩的感興を呼び起こすように並べる。

「言葉にはそれぞれ色がついていて、わたしには見える。そうした色の配列が意味の配列と一致していないと失望する」そのような意見があったと記憶する。

川端康成は、小説を朗読に使いたいと申し込まれて、自分の小説は、目で見て読んで鑑賞するように作ってあるものだから、朗読をしてもらっては困るとの意味の返事をしたという。

言葉にせいぜい意味と音と形くらいしか見ないなら、制約は少なく、原初のコンセプトがあれば、詩文は簡単にできる。
言葉に色や香りやその他の性質を見てしまう人は、制約が多くなり、簡単にはできない。
言葉の周囲に際限なくひろがるイメージを気にしてしまう人にとっては、無理に言葉を並べることはかなりの苦痛であり、冒険だろう。

鈍感なわたしは数種の色しか見えないので、作りやすい。
最近はパステルピンク、パステルオレンジ、パステルグリーンの三色の組み合わせを探求している。

鈍感な人ほど、詩文を作ることができるという逆説にも通じる。
鈍感な人でなければ、言葉がぶつかり合っているのが見えてしまい、表現をあきらめてしまうだろう。
そしてただ古典を愛する態度になる。

Last updated Jun 6, 2006 03:35:43 PM

人間であるとは神から遠ざかる罪に他ならない

ただわずかに人間的であろうとして
ただわずかに社会的であろうとして
神から遠ざかってしまうことの
何と多いことか

神からこんなにも遠い地点に放り出されて
それでも神を呼ぶ

Last updated Jun 5, 2006 09:08:11 AM

生の実感

雨の夜
私は小さな夢をみる

生きるという かすかな実感が
私を告発する

責めてください
生きているという感覚にまみれたいから

Last updated Jun 5, 2006 09:09:09 AM
Jun 4, 2006
モーツァルト的変換装置 絵画は楽譜と同等物である

絵画においては
現実の睡蓮 → モネ的変換装置 → モネの睡蓮

音楽においては
現実の体験 → モーツァルト的変換装置 → 楽譜 → 実際の演奏

と考えられる。
音楽では演奏者が存在している。絵画では、観賞者が音楽演奏者に相当している。
音楽では演奏者と聴衆が異なることが多い。演奏者が自分の発している音を聞いて鑑賞する場合が、絵画の場合と同等になる。
絵画では、ある絵について、いろいろな解説をしてくれる場合、音楽演奏者と聴衆に近い関係となる。

そこで両者を統合して細分すると、

現実の体験 → 芸術家の内部の変換装置 → 楽譜や絵画 → 演奏家や解説者の活動 → 鑑賞者の感動

ということになる。

わたしの理論では、絵画は楽譜と同等物である。絵画を鑑賞する人は音楽の演奏家と聴衆を兼ねていることになる。

考えてみれば、たとえば吉田秀和は、解説者として、音楽についてが本職であったが、絵画についても、同じような態度で読者に語りかけたと思う。

以上から、結論すると、モネ的変換装置が存在し、それを鑑賞することが可能であるなら、同様に、モーツァルトの楽譜を読むことによって、モーツァルト的変換装置を感得し、そこに感動することができるはずである。
つまり、実際の演奏音でもなく、さかのぼって、楽譜でもなく、さらにさかのぼって、モーツァルト的変換装置を鑑賞しようという態度である。
一応、そのような結論が得られる。

Last updated Jun 4, 2006 01:32:30 PM

広告とは

売らねばならない必要性が

必要に応じて買う必要性を

はるかに上回る

それが広告である

しかしわたしの身の回りでも

良心的な人たちが一所懸命に広告の仕事をしている様子を見れば

そんなに悪いことをしているとも思えなくなるのではあるのだが

Last updated Jun 4, 2006 10:47:11 PM

人生に大切なもの

心の通じる人たち

に囲まれて過ごす人生が一番大切

と思う

Last updated Jun 4, 2006 09:23:23 PM

入学試験の目的

入学試験の目的=

無意味な仕事に没頭できる気質を確認すること。

良心を捨て自分の人生の意味を考えず
言われたことを事務的にこなす
官僚的能力を確認すること。

部下になる能力の検定。

Last updated Jun 4, 2006 08:49:59 PM
Jun 1, 2006
ピカソ的変換装置

たとえばピカソの絵を見れば、何となくピカソらしい。モネはモネらしい。なぜだろう。

「ピカソ的変換装置」を考える。これに鳩を代入すれば、ピカソの鳩が出力されて、作品として鑑賞できる。わたしたちは現実の鳩を知っているから、現実の鳩とピカソの鳩を頭の中で引き算をして操作する「運動」を、「ピカソ的変換装置」として考えることができる。
モネの場合には、モネの睡蓮=「モネ的変換装置」に(現実の睡蓮)を適用したもの、と考えることができる。
では、現実にピカソの鳩やモネの睡蓮を鑑賞する代わりに、「ピカソ的変換装置」や「モネ的変換装置」を「鑑賞」することができるはずではないか。そこに感動することはできないのかという問題がある。
ここで感動の位相が変位している。

物理学ではケプラー、ガリレオ、ニュートンと時代は進んで、無数の現実の観測数値から、いくつかの数式へと純化された。
「何時何分、土星はここ!」「おお!」
と何度も言う代わりに、数式を提示して、その美しさに感嘆すればよい。もう現実の土星を見る必要はない。
無論、土星を愛するなら愛してもよい。
同じことが絵画や芸術一般に言える可能性がある。これは昔から指摘されていることだ。

事情は同じではないが、一言挿入しておくとして、たとえば音楽で、実際の演奏と、楽譜を比較してもいい。一般には実際の演奏によって音楽を鑑賞する。しかし能力があれば、バッハやモーツァルトの楽譜を眺めつつ、時間をかけて楽譜音楽そのものを楽しむことができる。バッハは楽器の指定をしていない楽譜さえあり、まるで演奏されることを想定せず、楽譜として読まれることを想定していたのではないかと思われるものまである。専門家ではないし、わたしには「楽譜そのものを楽しむ能力」はないので、そのように音楽関係の人から聞いているとしかいえないけれど。
話によれば、絶対音感が保たれていれば、そばにピアノがあることさえ必要ではない。楽譜を開いて、しばし楽しむことができる。そうでない場合には、とりあえずピアノを弾く。そして音楽の輪郭を再現するのだという。

またさらにもう一言挿入するとして、楽譜は、音楽家のコンセプトそのものではない。楽譜を読む人間は楽譜を手がかりとして作曲家の原初のコンセプトそのものにさかのぼりたいのだ。心に閃光が走ったその瞬間をつかみたいのだ。
音楽家の原初のコンセプト → 楽譜 →現実の演奏
この系列で連なることになる。
まったく違う話だったので、ここまでとする。

元に戻って、絵画について極端に言えば、「モネの睡蓮」は、「現実の睡蓮」に「モネ的変換装置」を適用したものであり、何に感動しているのか、純化できる可能性がある。「現実の睡蓮」を愛するならそれでいいし、「モネ的変換装置」を愛するならそれでもいい。「モネの睡蓮」を愛するなら、上記の操作の結果を愛していると自覚した方がいい。
ただ、現時点では「ピカソ的変換装置」を具体的に示すことは難しい。しかしそれが分かれば、ピカソの作品を1000点も見ないでも、ピカソ的なものを把握できる。鳩を見てピカソ的に出力することが可能になる。
いま世間で言われている盗作問題はそのようなことを前提として含んでいる。

絵画のことは詳しくないが、文学や思想に関しては、盗作でないものなどないだろう。意識しているか、無意識の影響を受けているかの違いだけである。他人に通じる言葉を語るということがすでに「盗作」を意味している。全く通じない言葉を話す人たちもいて、他人に理解されず、精神科医に「病気だ」と認定される。

さかのぼれば、どんなものでも存在し、どんなものの中にも、潜在する多様な要素を指摘することが不可能ではない。抽象化の程度の違いであり、象徴作用の程度の違いである。たとえば、インド古代思想の中にどれだけの潜在的可能性があるか、指摘することが、それ自体新しい思想にさえなり、そのことがすでにインド古代思想に内在していると循環論を構成することさえもできる。あまりおもしろくないのでやらないが。
ただ現代人の口に合うように調整しているだけだ。

たとえば、大伴家持を消去した日本文学史を学び、大伴家持を消去した日本短歌世界を学んだとする。たぶん、その人は、自然に、大伴家持的短歌を「創作」するだろう。そしてあとになって、それは「現代日本語が内蔵する資産」から自然に産生されるものであることを知るだろう。必然的に大伴家持をなぞってしまう。言葉とは、また、文化とは、そのようなものではないか。「なぞってしまう」ときの具体的な言葉が、そのときどきの言葉である。抽象化と象徴化の程度の違いがあるだけだろう。

たとえば、「花が散った」をわざわざ「花の存在が消滅した」と言い換え、さらに「花の不在が発生した」と言い換える。「結局同じだろう」という人たちと「その違いは大きい」と言う人たちがいて、お互いを「嘘つき」だとか「理解していない」と言うのだろう。

結局、深く理解する者は語ることをやめる。
世の中はいつまでも同じことを繰り返す。

Last updated Jun 4, 2006 01:06:06 PM

アジアのアイドル

東南アジア文化圏を考えます。
まずはこんなものを
アイドルcyndi

……つながりにくいです。

Last updated Jun 1, 2006 10:03:24 PM
May 31, 2006
Mad Cow

以下、全文引用です。

Testing for Mad Cow

Published: April 16, 2006

To the Editor:

”Stop: Don’t Test Those Cows!” (editorial, April 5) asks a good question: Why doesn’t the Department of Agriculture allow the private testing of cattle for bovine spongiform encephalopathy?

The answer is simple: There is no food safety test for B.S.E., and testing cannot guarantee that an animal is free of the disease.

The U.S.D.A. bases its testing decisions on sound science and the need to protect human and animal health. Scientific evidence tells us that the average incubation time for B.S.E. is more than five years and that the disease isn’t detectable until a few months before an animal shows signs of the illness.

Based on that knowledge, the U.S.D.A. tests those animals most likely to have the disease, like older animals showing clinical signs, rather than indiscriminately testing all animals.

The real protection for consumers against B.S.E. is not testing, but our system of interlocking safeguards, the most important being the ban on specified risk materials from the food supply and the Food and Drug Administration’s ruminant-to-ruminant feed ban.

Ron DeHaven
Administrator, Animal and Plant Health Inspection Service
Department of Agriculture
Washington, April 11, 2006

Last updated May 31, 2006 08:00:39 AM

へたり牛 BSE 狂牛病 mad cow New York Times

へたり牛【へたりうし】
病気やけがなどを原因として,起立や歩行が困難になった牛の総称。関節炎・蹄病(ていびよう)・骨折・出産直後の低カルシウム血症など,さまざまな原因がある。ダウナー-カウ。ダウナー牛。歩行困難牛。
〔BSE(牛海綿状脳症)の発症時も同様の症状を示すが,多くは BSE と無関係であるため,検査方法や食用流通の是非について見解が分かれることも多い〕

牛海綿状脳症【うしかいめんじょうのうしょう】
ウシの感染性疾患の一。脳に障害をきたし,行動異常や運動失調などの後,死に至る。病原体は異常型プリオンと考えられている。狂牛病。BSE。
〔1986 年にイギリスで発見されて以来,ヨーロッパ各国で発症が確認され,2001 年(平成 13),日本でも発症が確認された。感染したウシの肉骨粉を含む飼料により感染が広がったと考えられている〕

プリオン【prion】
タンパク質の一。脳などに存在する。異常型プリオンは,クロイツフェルト-ヤコブ病,スクレイピー,牛海綿状脳症などの病原体とされる。異常型プリオンが体内に入ると正常型を不可逆的に異常型に変え,増えた異常型プリオンが脳内に蓄積することにより発症すると考えられている。

肉骨粉【にくこっぷん】
ウシやブタ,ニワトリなどの食肉処理の過程で得られる,可食部分を除いた内臓や皮,骨などを加熱処理して製造する動物用飼料。
〔2001 年(平成 13)日本で牛海綿状脳症の発生が確認され,ウシの肉骨粉は飼料としての製造・出荷・使用が禁止された〕

TSE [transmissible spongiform encephalopathy]
脳にスポンジ状の変化を起こす進行性,致死性の神経性疾患。牛海綿状脳症,ヒツジのスクレイピーのほか,人間では変異型クロイツフェルト-ヤコブ病などがある。伝達性海綿状脳症。

へたる
(1)尻をつけて座る。尻もちをつく。

へた
茄子(なす)・柿などの実についている萼(がく)。

へた
はし。へり。

New York Times の記事
Stop: Don’t Test Those Cows!
*Please Note: Archive articles do not include photos, charts or graphics. More information. April 6, 2006, Thursday
(NYT); Editorial Desk
Late Edition – Final, Section A, Page 24, Column 1, 375 words
「BSE」ではなくmad cow diseaseと表現しているようです。

最近の動向はこちら

BSE&食と感染症 つぶやきブログ

「はたともこ日記」ブログ  

Last updated May 31, 2006 09:43:36 AM