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愛は「ひとつで変わらないもの」であることの論証・脳の学習臨界期理論

愛は一度限りであることの論証。
愛は一度限りの強い学習であることをデッサンの形で述べる。

人間の脳は環境条件に応じて適応できるように、不完全さを残して、生まれてくる。

たとえば爬虫類は、脳の構造が固定されていて、出生後の学習も限られているので、適応の範囲は狭い。適応は主にDNA選択により達成される。

哺乳類になるとたとえば出生直後の「すり込み」が見られる。出生直後に自分の近くにいる動くものを自分の母親と見なし、行動のモデルとする現象である。ここでは「母親役」が入れ替わることによって、適応の幅が広がる。DNAによって固定されていない。このように脳には未確定部分があり、環境条件による確定を待っている。
脳の未確定部分が大きいほど適応能力は高くなる。その反面、「学習障害」も発生しやすくなる。つまりある種の精神障害である。間違った学習と言ってよい。
例を挙げると、パニック障害で見られる電車恐怖は、電車という状況と恐怖信号が間違って結びつけられた学習である。またたとえば、強迫性障害で見られる確認行為も、間違った学習と考えられる。
これらが障害と考えられるのは、訂正が難しいからである。つまりは強い学習であるといえる。

この種の強い学習には様々なものがあるが、食事に関するもの、言語に関するもの、性に関するものなどが代表的である。食事については生後直後ないし一年程度から学習が開始される。言語についての脳の学習臨界期については種々の報告があるが、おおむね小学低学年である。性に関する学習については当然ながら第二次性徴の時期に開始される。

哺乳類の求愛行動全般を見るとかなり多様である。同じ種でも環境条件によって行動パターンが異なる例もあるらしい。
人間に限ってみても、求愛行動は各国種族により異なり、たとえば中国秘境の種族に関する婚姻習慣についての研究など、興味深いものがある。
求愛行動について、例外的習慣を興味本位で取り上げて拡大解釈する場合もあると思われる。

しかしながら、原則を言えば、第二次性徴期に、性ホルモンの影響で性行動に関しての脳の強い学習期が始まる。その時期の強い学習を「初恋」と定義してもよい。一度学習されたパターンは固定されて、その後の性行動を支配する。
従って、その人における愛はその時期に決定・固定される。その後に起こることは、その形式の反復であり、数式における代入に等しい。

この意味で、愛はひとつだけなのである。
何回も恋愛するように思っているとすれば、それは恋愛対象が複数になる不幸な例である。
恋愛対象は複数で変動的でも、その行動パターンを分析すれば、「常に複数で常に変動的である」という、「ひとつの変わらない」パターンが見えてくる。

ひとつには、パートナーが死亡するなど、不可抗力の場合がある。そのばあいには仕方がないしいつも相手を取り替えているわけではない。
詩人八木重吉の妻、登美子夫人が、歌人吉野秀雄の妻となった例。

他のひとつには、ただ一度の学習において、浮動性の恋愛を学習してしまった可能性がある。
恋愛対象を常に複数とする傾向や、恋愛対象を常に入れ替え続ける傾向と、愛の初期学習が結合してしまった場合は、不安性障害などの場合と同じく、愛の恒常性の障害と言える。

このように考えれば、やはり、愛はひとつだけである。愛は「ひとつで、変わらないもの」である。

言い換えれば、愛の対象はひとつとは限らないが、愛のパターンはひとつだけである。そして愛の対象が複数の場合は、不可抗力の場合もあり、愛の恒常性障害の場合もある、ということになる。

例外をあげれば、愛に関しての脳の強い学習臨界期が、複数回訪れる場合が考えられる。腫瘍の一部では、過剰な性ホルモンを産生する場合がある。その場合には、脳は第二次性徴期と同等な条件となり、愛についての強い学習が起こるだろう。
しかしこのようなことは当然、きわめて例外的である。
言語学習についてもきわめて例外的に多言語を器用に操るに至る例がある。その場合も、ある言語について完全に欠損なく運用できる場合は限られているように思う。個人的な体験では、ひとつの言語の習熟は、もう一つの言語の完全性の水準を低下させるようである。

Last updated May 28, 2006 11:13:16 PM

May 27, 2006
愛はただひとつである

ただひとつの愛

愛はただひとつであることを証明したいと思うようになった

人間がひとつの時間に物理的に存在できる場所はただひとつだけであるように
人間が愛することができる相手はたったひとりであることを
証明したいと思った

あまりに自明なので今までは証明したいなど考えなかった
わたしがいままで愛した人もこれから愛する人もたったひとりだから

たくさんの人の話を聞いていると、
世の中には浮気というものがあるという。
大変驚いた。
浮気などというものは原理的にあり得ないのだと思う
しかしそれを証明するとなると難しい
あまりにも自明だからだ

太陽がひとつしかないことを
どのようにして証明するというのか

二人とも好きというのは、
要するに、
嘘つきということだ。
愛の純粋性を裏切っている。

愛という言葉の意味が拡散してしまっているのだろう

逆に定義したい
一生にたった一度で、ずっと続く強い誓いのような祈りのようなもの、
それが愛だ
それ以外を愛とは呼ばない

そして愛こそは人間に備わった
最も深く高貴な能力である
だから愛は大切に扱う必要がある

Last updated May 27, 2006 07:57:08 PM

ただひとつの愛

祈りがなくて生きてゆくことはできない

わたしが神への感性を失っていないかどうかを問うための祈り
ただそのために祈ろう

カラマーゾフのアリョーシャの言うように
かつて私も 清く美しい感情に接し魂の浄化を覚えた時があったのだと
いままた新鮮に思い出すために祈ろう

雨が屋根をたたいている
ばらも雨に濡れているだろう
そしてあじさいも雨を呼吸しているだろう
思い出のなかのあなたも
明日からのあなたも
わたしを育んでくれる
この雨のように

雨音はやさしく寄り添う
美しいものが美しいままであること
それもよいことなのだと
私の心を慰める

人間とは美しいものだ
私は人間を愛している
人の心は小さいが
しかし美しいものなのだと
信じることができる

あなたのゆえに
信じることができる

この年月を経て
わたしが真に学んだことは
愛はたったひとつで
愛する人はたったひとりだということだ

ただあなただけを愛するために
わたしは生まれたのだ

雨音の中に
わたしのたったひとつの愛が見えている
ただひと筋に見えている

Last updated May 27, 2006 07:32:35 PM

May 26, 2006
EDを通してみる思いやり

50歳男性、脳梗塞のため身体に障害が発生し現在はリハビリ中である。障害のひとつにEDがある。

一般にED受容のプロセスとでも言うべきものがある。喪失体験の応用である。EDの男性はまずEDであることを否認しようとする。次に誰かを恨んだり、怒りを発露させたりして、そのあとで次第に現実を受容する。

典型的な最初の反応は、EDなんか問題ではない、である。問題にするおまえがおかしいと語り、さらにはおまえのせいだとパートナーを責めることまである。そのあとでやっと現実を受容する。

この50歳男性の場合には、かなり大きな失意の時期があり、そのあとで比較的早期に受容した。「わたしはEDであることはつらいが、そのつらさは、妻を満足させてあげられないことだ」と語る。
まずこの点だけでも偉い。

次に言う。
「妻は、わたしを性的に満足させられないことで自分を責めていると思う。自分の女性性に自信を失っているかもしれない。ちょうど更年期でもある。」
このように女性の側に立って、EDの問題を考えられる男性は少ないのではないかと思う。この点で偉い。

さらに語る。「セックスのことなどあからさまに話したことなんかないんですよ。ただ、若い頃からの積み重ねがありますから、あうんの呼吸ですね、話し合わないでも、お互いにちょうどよくできていたんです。」
ちょうどよくというのは、いろいろな意味でちょうどよくであろう。最近は、「言葉にして話さないと分からないことが多い、だから、もっとかみ砕いて、自分を説明する努力をしましょう」と説明することが多いのだが、性的領域に関しては、言葉だけでは不十分である。言葉も必要であるが、言葉以上のものも必要である。

お互いを思いやる心がこのように結晶して、長い期間にわたる夫婦関係が築かれる。自分が満足することと相手を満足させることがほぼ重なるように同時に達成されているらしいのだった。いい話を聞かせてもらった。

Last updated May 26, 2006 11:30:36 PM

ローで高速も走る

うつ病の人の性格を
自動車でたとえると
ギアをローに入れたままで
高速道路も走り続けるような
ところがある。
確実堅実だけれど
エンジンの負担が大きすぎる。

Last updated May 26, 2006 09:57:09 AM
May 24, 2006
おおばかなこさんのこと

拙著「こころの辞典」の編集当時
一緒に仕事をしていた仲間に
大場奏子さんがいます。
ご自分のことを
「大バカな子」と笑っています。
彼女はうっかりしていて東大の大学院を卒業しました。
東大の大学院まで出てしまうなんて
やっぱり大バカな子なのかもしれません。

Last updated May 29, 2006 12:08:20 AM

自分を訂正することはかなり難しい

物事を認知できれば訂正できるかという問題。
たとえば、自分の悲観的思考の傾向を認識できれば、訂正できるだろうとする考え。認知療法の基本コンセプトですね。

ブリジストン美術館でわたしはゴッホを見る。ピカソもセザンヌもモネもルノアールも有島もエジプトの宝物も見る。どれもそれぞれに素晴らしいと感じる。でもわたしには描けない。

精神科領域で、風景構成法という技法がある。最後には風景ができあがるのだけれど、描いた人に最後に感想を聞くと、「変ですね」と言ったりする。描いた結果については「変だ」と評論できるのに、自分で描く時は変だけど描いてしまうのである。
そこが不思議だと思う。変だと思うのになぜ訂正できないのだろう。自分の絵について、変だと思うことができるならば、次からは訂正できるはずではないか。

でも、もちろん、訂正はできない。わたしも同じで、自分の絵は稚拙だと思いつつ、どうしても稚拙な絵しか描けない。

絵だから自己批判も簡単だけれど、目に見えないことについてはもっと難しい。

人間が自分を訂正するのは、かなり難しいことなのだと認めざるを得ない。

Last updated May 24, 2006 07:31:42 AM
May 23, 2006
客舎青青柳色新

元二を送る  <;王 維>

渭城の朝雨軽塵をうるおす
客舎青青柳色新たなり
君に勧む更に尽せ一杯の酒
西のかた陽関を出ずれば故人無からん

いじょうのちょうう けいじんを うるおす
かくしゃ せいせい りゅうしょく あらたなり
きみにすすむ さらにつくせ いっぱいのさけ
にしのかた ようかんをいずれば こじんなからん

渭城の朝雨軽塵をうるおす
客舎青青柳色新たなり

ここでぴったりピントが決まりました。
柳を愛でて歌うのは一種の伝統ですね。

Last updated May 23, 2006 11:26:07 PM
Apr 28, 2006
ヘンリ・ライクロフトの手記2 [ カテゴリ未分類 ]
ヘンリ・ライクロフトの手記から引用2

「自分の生涯は終わった」
暫くは殆ど恐怖に打たれる思いであった。何ということだ!ほんの昨日まではまだ青年であって、計画を立て、希望を抱き、実際無限の前途を望むように将来を眺めていた自分。あれほど元気にあふれ尊大に構えていた自分。それが今日はこうして動きのとれない回想に耽る身になってしまったのか?
自分には時間がなかったのだ。ただ準備をしていたばかりだった。
人の一生はこんなに短い空しいものであってよいのか?否、真実の意味に於ける人生は今始まったばかりである。しかし自分の前途に再び期待や希望が開けて来ることは決してないということは真実である。自分はすでに「隠退」したのだ。自分は辿り終えたその道程を振り返ってみることが出来る。それは何と詰まらない生涯であることだろう!
自分がこの世に生まれ、自分の小さい一役を演じ、そして再び沈黙の中へ消え去ることを、覆面の運命が命令したのだ。
かくも長い人生の旅路を、かくも安楽に終わったことは、有り難いことではないか?

—–
過去に得た経験を携えて、自分がもう一度、人生を始めることが出来たならば!なにか明確な、達成可能な理想を絶えず目標として。そして、実現の不可能な、労して益なきものを、厳にしりぞけながら。

Last updated Apr 28, 2006 11:50:46 AM
Apr 27, 2006
竹久夢二より2

竹久夢二の断片から再構成
—–

忘れたる

不可思議の夢

やさしくも蘇る

東京の夜こそかなし

春の愁いは

恋人の髪の香のごとく

ほのかに

やさしく

忍び寄るなる

Last updated Apr 27, 2006 08:22:44 PM

タロットカードの夢

アメリカ西海岸で怪しげな異教徒的ないし半プロテスタント的集団の心理療法家の集まりがあり、見物するだけでいいからと出席を強要され、ほとんど日帰りで行ってきた。当然であるがなかなか強烈な人たちで全く肌合いが合わなかった。異臭を伴っていたことも耐え難かった。彼らの語ることについては、こちらの英語理解が未熟なせいもあるが、それでも賛成しかねることばかりで、むしろ、彼らの精神構造を解釈してしまうような具合だった。だから、表面的には特に影響を受けていないと感じていた。ところが深層心理では何か強烈な刺激を受けてしまったようで、飛行機の中で悪い夢を見て、忘れられず、ここに書いておこうと思った。

タロットカードを持った30歳くらいの女性がいて、わたしのことを占っている。まずステンレス製のハートの鈴を鳴らし、わたしの周囲にある邪気を追い払った。

たいしたことではないけれど、やはり誰にも邪悪な気はあるものだから、こうすると少しはいいものなのよ。科学者であるあなたには不満もあるでしょうけれど。
さて、まず現状のおおざっぱな把握をしておきましょう。カードは「hanged-man」と「moon」と出ました。
「hanged-man」は足首をロープで吊されて、ぶらぶらしているけれど、怖がってはいない男といったところですね。むしろその中途半端な状態をenjoyしているのよ。ふざけた悪い男で、でも、憎めないわ。吊されても、まだ余裕があるのね、奥底に自信がある。
「moon」は満ち欠けを繰り返しますから、あなたが曖昧な状態を好んでいることをあらわしているでしょう。あるいは、月に関係する何かがあなたに強く影響しているかもしれません。たとえば、月は蟹座につながる何かかもしれません。またあるいは女性的原理を表現していて、家族についての欲求かもしれない。
まとめて言えば、あなたの現状は、女性的原理に強く支配されていて、曖昧、しかしその変化や決断のなさをあなたは楽しんで肯定している、カードにはそう出ています。
恐くありませんよ、そのくらいは当然分かりますから。

つぎにあなたの過去、現在、未来を見てみましょう。「wheel of fortune」「judgement」「the star」と出ました。
「wheel of fortune」はあなたの過去が「運命の車輪の回転」であったことをあらわしています。まあ、誰の人生もそうですが。運命の環はあなたを引き裂いたと思います。だからあなたは臆病になり、女性的原理に傾き、曖昧を愛する人になってしまいました。誰の人生にもそのような一時期があります。あなたの場合、いまがそうです。
「judgement」はいまあなたが大切な決断の時期にあるということです。この解釈はあまりに分かりやすいので、むしろ危険ですが、それでも、あなたの場合の意味は決断です。女性的原理・曖昧さへの愛を超えて、決断すべきときです。痛みをこらえて決断する必要があります。
「the star」はあなたの未来です。ただし、これをあなたの未来は輝かしいと安易に断定することはできません。太陽とは違い、月とも違う、惑星でもない、星、特に恒星です。太陽よりも遠く冷たく、月のように惑わせることなく恒なるもので、惑星よりも安定して不動のものです。あなたの未来は遠く、惑わず、不動のものと言っていいでしょう。ただ、どうしようもなく冷たく、静謐な世界といえるかもしれません。

では一枚選んで下さい。これがあなたにいま一番必要な要素です。「justice」と出ました。これは、いまあなたが直面する問題に対して、感性ではなく思考で、女性原理ではなく男性原理で、愛よりも正しさで、対処すべきだという意味です。キリスト教的というよりはユダヤ教的、新約聖書よりも旧約聖書、特にモーセの十戒を参考にして下さい。カードには天秤が描かれていますから、天秤座をイメージしてもいいでしょう。天秤は正義です。赦すことよりも裁くことを心に命じて下さい。あなたは赦しすぎてきました。

あなたにすべてを告げることは禁じられていますから、わたしにはできません。占いは予言であってはならない。未来を変更することは許されないのです。ただ、あなたが自分でたどり着くなら、それは許されることで、むしろ人生の意味にたどり着くことがあなたの使命です。考え続けなさい、そして、justiceを心に進むのです、そうすればあなたなりの the star となるでしょう。

ステンレスのハートをチロチロと鳴らし、夢が終わる。悪い汗をかいていた。

自分としては気味が悪いくらい思い当たる点があるのだが、無論、自分が見る自分についての夢であるから、自分が妙に納得して当然であり、そのあたりのからくりについては理解できている。恐怖と羞恥で書けなかった言葉もある。夢を回想しているので、「検閲」メカニズムにより、自分にとって都合のいい変更も加えられているだろう。それにしても、悪い自律神経性の発作を伴う夢だった。彼らの悪臭の中に何か向精神性の化学物質が混じっていたのだろうと思う。

「タロットカードを持った30歳くらいの女性」は見覚えのある女性であるから、機会があったら、今度はこちらが夢に出て、悪い汗をかかせてやろうと思う。

Last updated Apr 27, 2006 08:11:23 PM

竹久夢二より

春の夜の

心に少し

かかるもの

一筋残る

黒髪か

忘らるる身の

いとしさか

夜は夜とて

昼は昼ゆえ

黒髪の

いたずらに

乱れそめしか

読み捨てし

文がらなるか

春の夜の

心に少し

重きもの

Last updated Apr 27, 2006 08:21:15 PM