アーカイブ24

夢から覚めてもまた別の夢の内部
そんな四月の花たちを
何度も揺り起こしてまわる四月の風が好き
でももっと好きなのは あなたのことば

ーーーーー
四月の花たち
夢から覚めても
また別の夢
四月の花を
何度も揺り起こす
春の風が好き
海からの風が好き
でももっと好きなのは
あなたの言葉
あなたの愛の言葉

ーーーーー

ZERO LANDMINE

N.M.L. – ZERO LANDMINE (Full version,Live)

貧困、飢餓、暴力、戦争、地雷、環境破壊、攻撃性

N.M.L. – ZERO LANDMINE 04:58 version

真剣に考え
深く感じたいものだ

左脳がつくった社会がこれだ
これでいいはずはない

人殺しの命令を受けたら
いやだと言える人に

インタビューで坂本は語る
「今まで左脳の音楽をつくってきた
でも
老人性エレクトリニカがいい
すぐ忘れる
覚えられない
くどい
しつこい
ミニマリスト」

人殺しの命令なんか
忘れてしまう

Jul 23, 2006
ボサノバ聞き比べ

カルロス・ジョビン

坂本

ジョアン・ジルベルト

Morelenbaum2 Sakamoto – A FELICIDADE (Live)

アントニオ・カルロス・ジョビン(トム・ジョビン)のFelicidadeの歌詞より。

悲しみには終わりがない
でも
幸せには終わりがある

悲しみには終わりがない……

Jul 20, 2006
携帯入力は左手でと提案

一方の脳半球で機能不全が起こった場合、他方の脳半球で機能を補うことができれば、大変有利である。
たとえば右片麻痺が起こった場合に、右利きの人は大変苦労するが、左利きの人は比較的リハビリが楽である。
若い頃から両手が器用に使えるようにしておけばいいのであるが、そんな面倒なことも言っていられない。いまさら左手で箸を使う練習など、よほどの動機がなければしないだろう。
しかし携帯入力はまだ始めたばかりという人も多いだろう。右でも左でも、あまり差がないのではないか。
だとすれば、積極的に、「携帯は左手で」、と決めれば、自然に右脳運動野の訓練になる。
脳トレーニングで素早く計算したりするのも大変よいが、この方法もよい選択かと思う。
脳の未開発部分を訓練できる。

Last updated Jul 17, 2006 11:39:20 PM

その黒髪の筋ごとに

本歌

黒髪の 乱れも知らず 打ちふせば まずかきやりし 人ぞ恋しき 

(後拾遺、恋三)和泉式部

本歌取り

かきやりし その黒髪の 筋ごとに うち臥す程は 面影ぞ立つ 

(新古今、恋五)定家

Last updated Jul 17, 2006 01:19:18 AM

山羊は永遠を見つめて佇む Jul1の絵について

間接的知人であるOさんの絵を紹介する。
知人の知人であるから、わたしは個人情報をよく知らない。知人はわたしに「おもしろいよ」とだけ言って絵を数枚くれた。わたしは驚いた。少しだけ感想を述べた。そのあとで知人を通じてブログ掲載への許可をもらった。
ここで述べる自由な感想についてはOさんは知らない。気に入らないかもしれない。

数枚の絵について全体としての感想

ワーグナー的
決してバッハ的ではない
色を付けたら現実世界に近くなった
鳥の羽、魚のしっぽなど、人間と生物との融合
人間と鳥、人間とトンボ、鳥と機械の融合
解剖学的
ダビンチ的
胎児は系統進化をたどる
過剰な装飾→過剰
どの少女も痩せていて、脂肪がない。たぶん、月経もない。→欠乏
過剰を方法として欠乏を描いている。

掲載の絵についての感想。

中央に年老いた山羊。耳は不自然にとがっている。それは臨界点を超えたしるしである。悲しい瞳。蛇。そして逆さの鳥。この三者は年老いた知者をあらわすだろう。そしてその手前に座る白い少女。白すぎる。そして関節部分には出血斑のようなものがある。白血病を感じる。右足は池につかり、その先は魚になっている。少女は悲しい瞳で左手に百合の花を持っている。ユリは花、茎、根まで描かれている。
画面手前には天使が飛んでいる。この少女の羽はトンボの羽である。緑のリボンが誘惑をあらわしている。
画面の奥に洞窟がある。洞窟の奥には光があり、そこでは若く美しいソクラテスが活躍している。しかし洞窟の内部は暗く悲しく沈んでいる。
知性は終末を結論した。それ以外に運命はない。ゆえにソクラテスの華やぎは虚しい。
神々の黄昏である。老人は過剰な知恵を持つものの、その過剰さゆえに、この美しい少女を荒々しく蹂躙することができない。少女の欠乏を補うことができない。ただいつまでも愛撫を続けるだけである。終わりがない。ウサギ。このウサギがそれを見ている。不思議の国のアリスが見ている。
少女には脂肪がない。乳房は微かである。神々は成熟する一歩手前の肉体と精神と合一することができず、ただ黄昏れている。少女の頭の周りには緑色の浮遊する何かがある。それは魂なのか罪なのか。いっそ蹂躙してくれれば罪も消えるかもしれないものを、そのように少女は泣いている。山羊と蛇と鳥はただ視線で犯し続け、指先で犯し続ける。ウサギはその一部始終を見つめている。そしてなお、それなのに、洞窟の外ではソクラテスが輝かしい知性を振りまいている。
樹と樹は枝でつながり合い、魚と少女はつながり合う。
融合と拒絶。光は洞窟の外にだけある。しかし老いた知性はそれを悔いることもない。ただ虚しく循環する時間を見つめている。最高の知性は虚しい循環を永遠に生きる。それは終末と同じことだ。永遠と終末は同義である。
Last updated Jul 04, 2006 11:56:54 AM

http://steel2.sakura.ne.jp/cyndi/m1.html

Jun 24, 2006
補聴器機能付き音楽携帯の開発 [ カテゴリ未分類 ]
携帯ウォークマンと補聴器とシニア向けインターネットチャンネルについて
最近は若者が携帯電話にイヤホンジャックをさして、音楽を聴きながら、画面を操作している。両耳にイヤホンを入れて、外機を調整するのは、まったく補聴器と同じである。イヤホンをして、機械を胸ポケットに入れている外観は、若者と高齢者は同じである。

このことからすれば、「かっこいい」補聴器生活が始められるのではないか。電車で、隣に座っている若者と同じように、イヤホンをして、胸ポケットから出ているコードの途中にあるリモコンを調整する。ただそのリモコンには「拡声モード」が付加されている。現在の技術であれば、ある特定の周波数帯域を強調することも簡単だ。何よりすべての部品をウォークマンおよび音楽携帯と共有化できるのである。望まない高齢者には画面の操作もメールも必要ないように設定すればよい。箱だけ携帯と共通にすれば、かっこいいし、コストダウンにもなる。

異和感のない補聴器が出現する。

また、今後はシニア放送局を用意して、聞いていただき、老人はときにハードディスクで録音して音楽を聞いたり、ゲームをしたり、ニュースをチェックしたりする。能力開発ソフトに時事問題なども加えて、ゆっくりと反復する。

特別機能としては、ゆっくり話す機能がある。音程をそのままにしておいて、時間を1.3倍程度にゆっくりにすればよい。

CM早送り機能はついていても、ゆっくり機能がついていないビデオは多い。ボタンをひとつ押すと30秒先に進む機能はよくあるが、これと逆に、聞き逃した部分を何度でも再生できる30秒巻き戻し機能があればいい。現在も、語学学習用の機械には、30秒リピートなどがついている。

以上のような補聴器機能付き音楽携帯を開発し発売すれば、アップルを軽くしのげると思う。

Last updated Jun 24, 2006 08:58:11 PM
Jun 10, 2006
苦い物語

君が一笑すれば
百の花がこぼれる

甘い瞳の奥に
苦い物語がある

不思議なことに
大人になると
苦いものが
好きになる
Last updated Jun 10, 2006 11:51:54 PM

Jun 9, 2006

Last updated Jun 9, 2006 09:31:32 PM

Jun 8, 2006
Be realistic:Attempt the impossible.

Be realistic:Attempt the impossible.

graffito at Sorbonne
noted by Mortimer Adler
An Agenda for 21th Centry 所収

これはわたしの好きな言葉となって現在に至る。

Last updated Jun 9, 2006 12:06:45 AM
Jun 6, 2006

Last updated Jun 6, 2006 12:43:45 PM

偉大な人間

「すべての偉大な人間は

自己の理想を演じる俳優である」 出典不明

Last updated Jun 6, 2006 06:34:42 AM
Jun 5, 2006
実在(reality)

実在とは何か。

わたしが実在(reality)という言葉を使う時、何を意味しているか。

わたしたちは感覚器官を持ち、対象を感覚している。五感と言う。それで世界のすべてを認識できるかといえば、そうではない。

それを六感や七感に増やすことは難しい。

減らすことならできそうである。たとえば視覚の欠如した感覚世界を想像できる。実際にそのような世界を生きている人もいる。

そのことを考えて、反転させれば、たとえば七感による世界認識を仮想することができそうである。そのようにして、対象のすべての性質を抽出したとして、それがそのまま、対象そのものであり、「ものそのもの」であり、実在である。

わたしたちは実在の性質の中の、五感で感覚できるものしか抽出していない。その意味で、わたしたちは「ものそのもの」にはたどり着けない。いつでもすべての性質の中の一部分を抽出しているのみである。

言葉のひとつひとつに色がついていると表現する人は、より実在に近い認知をしているのだろう。

Last updated Jun 5, 2006 01:31:16 PM

詩・短歌・俳句の作り方

詩・短歌・俳句を作る方法

言葉をプロックのように組み立てて積み上げる。
ことばにはそれぞれ、意味、イメージ、音、形、色、香り、などの性質があり、それらの配列が詩的感興を呼び起こすように並べる。

「言葉にはそれぞれ色がついていて、わたしには見える。そうした色の配列が意味の配列と一致していないと失望する」そのような意見があったと記憶する。

川端康成は、小説を朗読に使いたいと申し込まれて、自分の小説は、目で見て読んで鑑賞するように作ってあるものだから、朗読をしてもらっては困るとの意味の返事をしたという。

言葉にせいぜい意味と音と形くらいしか見ないなら、制約は少なく、原初のコンセプトがあれば、詩文は簡単にできる。
言葉に色や香りやその他の性質を見てしまう人は、制約が多くなり、簡単にはできない。
言葉の周囲に際限なくひろがるイメージを気にしてしまう人にとっては、無理に言葉を並べることはかなりの苦痛であり、冒険だろう。

鈍感なわたしは数種の色しか見えないので、作りやすい。
最近はパステルピンク、パステルオレンジ、パステルグリーンの三色の組み合わせを探求している。

鈍感な人ほど、詩文を作ることができるという逆説にも通じる。
鈍感な人でなければ、言葉がぶつかり合っているのが見えてしまい、表現をあきらめてしまうだろう。
そしてただ古典を愛する態度になる。

Last updated Jun 6, 2006 03:35:43 PM

人間であるとは神から遠ざかる罪に他ならない

ただわずかに人間的であろうとして
ただわずかに社会的であろうとして
神から遠ざかってしまうことの
何と多いことか

神からこんなにも遠い地点に放り出されて
それでも神を呼ぶ

Last updated Jun 5, 2006 09:08:11 AM

生の実感

雨の夜
私は小さな夢をみる

生きるという かすかな実感が
私を告発する

責めてください
生きているという感覚にまみれたいから

Last updated Jun 5, 2006 09:09:09 AM
Jun 4, 2006

Last updated Jun 4, 2006 01:32:30 PM

広告とは

売らねばならない必要性が

必要に応じて買う必要性を

はるかに上回る

それが広告である

しかしわたしの身の回りでも

良心的な人たちが一所懸命に広告の仕事をしている様子を見れば

そんなに悪いことをしているとも思えなくなるのではあるのだが

Last updated Jun 4, 2006 10:47:11 PM

人生に大切なもの

心の通じる人たち

に囲まれて過ごす人生が一番大切

と思う

Last updated Jun 4, 2006 09:23:23 PM

入学試験の目的

入学試験の目的=

無意味な仕事に没頭できる気質を確認すること。

良心を捨て自分の人生の意味を考えず
言われたことを事務的にこなす
官僚的能力を確認すること。

部下になる能力の検定。

Last updated May 31, 2006 08:00:39 AM

へたり牛 BSE 狂牛病 mad cow New York Times

へたり牛【へたりうし】
病気やけがなどを原因として,起立や歩行が困難になった牛の総称。関節炎・蹄病(ていびよう)・骨折・出産直後の低カルシウム血症など,さまざまな原因がある。ダウナー-カウ。ダウナー牛。歩行困難牛。
〔BSE(牛海綿状脳症)の発症時も同様の症状を示すが,多くは BSE と無関係であるため,検査方法や食用流通の是非について見解が分かれることも多い〕

牛海綿状脳症【うしかいめんじょうのうしょう】
ウシの感染性疾患の一。脳に障害をきたし,行動異常や運動失調などの後,死に至る。病原体は異常型プリオンと考えられている。狂牛病。BSE。
〔1986 年にイギリスで発見されて以来,ヨーロッパ各国で発症が確認され,2001 年(平成 13),日本でも発症が確認された。感染したウシの肉骨粉を含む飼料により感染が広がったと考えられている〕

プリオン【prion】
タンパク質の一。脳などに存在する。異常型プリオンは,クロイツフェルト-ヤコブ病,スクレイピー,牛海綿状脳症などの病原体とされる。異常型プリオンが体内に入ると正常型を不可逆的に異常型に変え,増えた異常型プリオンが脳内に蓄積することにより発症すると考えられている。

肉骨粉【にくこっぷん】
ウシやブタ,ニワトリなどの食肉処理の過程で得られる,可食部分を除いた内臓や皮,骨などを加熱処理して製造する動物用飼料。
〔2001 年(平成 13)日本で牛海綿状脳症の発生が確認され,ウシの肉骨粉は飼料としての製造・出荷・使用が禁止された〕

TSE [transmissible spongiform encephalopathy]
脳にスポンジ状の変化を起こす進行性,致死性の神経性疾患。牛海綿状脳症,ヒツジのスクレイピーのほか,人間では変異型クロイツフェルト-ヤコブ病などがある。伝達性海綿状脳症。

へたる
(1)尻をつけて座る。尻もちをつく。

へた
茄子(なす)・柿などの実についている萼(がく)。

へた
はし。へり。

New York Times の記事
Stop: Don’t Test Those Cows!
*Please Note: Archive articles do not include photos, charts or graphics. More information. April 6, 2006, Thursday
(NYT); Editorial Desk
Late Edition – Final, Section A, Page 24, Column 1, 375 words
「BSE」ではなくmad cow diseaseと表現しているようです。

最近の動向はこちら

BSE&食と感染症 つぶやきブログ

「はたともこ日記」ブログ  

Last updated May 31, 2006 10:02:33 AM

Blowin’ In The Wind

May 30, 2006
千里鴬啼緑映紅 [ カテゴリ未分類 ]
江南の春  杜牧
千里鴬啼緑映紅
水村山郭酒旗風
南朝四百八十寺
多少樓台煙雨中

江南(こうなん)の春(はる)   杜牧(とぼく)
千里(せんり)鴬(うぐいす)啼(な)いて緑(みどり)紅(くれない)に映(えい)ず
水村(すいそん)山郭(さんかく)酒旗(しゅき)の風
南朝(なんちょう)四百八十寺(しひゃくはっしんじ)
多少の樓台(ろうだい)煙雨(えんう)の中(うち)

江南(こうなん):長江下流の南方一帯の地方。
酒旗:酒屋の看板用ののぼり。
南朝:現在の江蘇省の南京市であり、南北朝時代(420~589)の南朝 (宋、斉、梁、陳)の王朝が都した所で、仏教の盛んな時代であった。
樓台:二階建ての建物。たかどの。

 江南の地は、今、春たけなわで、千里もの道中でウグイスの声が聞こえる。川辺の村、や山辺の里などでは、どこを通っても酒屋の旗が風になびいていた。南京の町も近くなると、さすが南朝の都であった所だけに四百八十の寺が残っており、それらの多くの高どのが春雨の煙る中にかすんで見える。
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千里鴬啼緑映紅

この一句がわたしはとても好き。天才。

May 29, 2006
かわいいについて [ カテゴリ未分類 ]
一体かわいいとは何の意味があるのだろう。

「かわいい」を孤島にひとりで置いたら、かわいいには何の意味もない。自力で何かができるわけではない。
他人からのサービスを引き出す遺伝子と言えばいいのだろうか。ひいきされる能力と言ってもいい。
そうだとすれば、そのような遺伝子を持った女性の子どもはやはり他人からのサービスを引き出しやすくなり、結果として生き残りやすくなるだろう。だから男性がかわいい女性を選ぶ理由はある。

他人からのサービスは有限であり、奪い合いになるから、嫉妬の対象にもなりやすいだろう。

でも、他人の贔屓を当てにして生きる戦略というのも、情けないものではある。保証がないというか、担保がない。保険をかけられない。大変不安定な状況である。サービス供給者の気まぐれを阻止できない。結果として、あちこちに「かわいい」を振りまいて、保険をかけたくなるのだろうか。

Last updated May 29, 2006 08:33:46 AM

Last updated May 31, 2006 10:38:47 PM
May 28, 2006
ファンタジーとファンタジーが出会う時

ファンタジーとファンタジーが出会う時

前回は学習理論的な部分だった。今回はその先の、精神病理学的な部分を述べる。

一度限りの強い学習が愛について起こる時、それを初恋と呼ぶとした。強い学習体験のとき、体験の総体は完全に現実的であるか、あるいはかなり幻想が入り込んでいるか、個人によって違いがあるだろう。総じて言えば、現代の人間の場合、かなりファンタジーが入り込んでいると考えられる。初恋においてファンタジーが占める割合は文句なく高いのではないか。

そして現代日本においては、初恋のファンタジーは多様で多彩である。反対に、画一的な社会でならば、ファンタジーも一致度は高い。ある種の宗教的集団を考えてもいいし、ある種の趣味、趣向の集団を考えてもいい。日本の内部でも、そのような状況・集団は多々ある。その内部でならばファンタジーを共有する可能性を信じることもできる。所詮ファンタジーでしかないが、当人にはそのファンタジーしか思いつかないのだから、他の可能性を考えようもない。
たとえばプロ野球ファンとかブランド好きとか自己規定して安住できる人ならば、その先はあまり難しくない。価値の次元が単純だからだ。しかしやや複雑なアイデンティティを持つ人にとっては、初恋のファンタジーを満たす恋愛対象に行き着くことは難しいだろう。

また日本では地域的な流動性も高い。たとえば長崎で初恋のファンタジーを学習した人が、埼玉で仕事をしていてそのファンタジーを満たしてくれる対象と出会う確率はあまり高くないと考えられる。関西女性はきついと評する関東女性を知っているし、関東女性はきついと非難する関西女性を知っている。むしろネット社会の中などで輪切りにされた内部での方が、対象選択しやすいだろう。

日本の昔の田舎のように、流動性が低く、ファンタジーの一致度も高い状況では、大人たちのセッティングもかなり有効で、お見合いも有効である。しかし現代では、お見合いおばさんがいたとしても、初恋のファンタジーまで見抜いて仲人口をきくことも難しい。

自分の脳が創りだしたファンタジーを対象として愛を学習したとすれば、その後の人生で出会う現実の人間との愛は異和感を伴うものにならざるを得ない。
そしてある日、ファンタジーとファンタジーが出会い、「やっと本当の愛に出会った」と語る。

言い換えれば、初恋の原初的なファンタジーを満たす恋愛対象を見つけたということだろう。
幸せとも不幸せとも、言い難い。

以上の事情を勘案してもなお、愛はひとつでかわらないものだと言うことができる。

Last updated May 29, 2006 02:02:06 AM

愛は「ひとつで変わらないもの」であることの論証・脳の学習臨界期理論

愛は一度限りであることの論証。
愛は一度限りの強い学習であることをデッサンの形で述べる。

人間の脳は環境条件に応じて適応できるように、不完全さを残して、生まれてくる。

たとえば爬虫類は、脳の構造が固定されていて、出生後の学習も限られているので、適応の範囲は狭い。適応は主にDNA選択により達成される。

哺乳類になるとたとえば出生直後の「すり込み」が見られる。出生直後に自分の近くにいる動くものを自分の母親と見なし、行動のモデルとする現象である。ここでは「母親役」が入れ替わることによって、適応の幅が広がる。DNAによって固定されていない。このように脳には未確定部分があり、環境条件による確定を待っている。
脳の未確定部分が大きいほど適応能力は高くなる。その反面、「学習障害」も発生しやすくなる。つまりある種の精神障害である。間違った学習と言ってよい。
例を挙げると、パニック障害で見られる電車恐怖は、電車という状況と恐怖信号が間違って結びつけられた学習である。またたとえば、強迫性障害で見られる確認行為も、間違った学習と考えられる。
これらが障害と考えられるのは、訂正が難しいからである。つまりは強い学習であるといえる。

この種の強い学習には様々なものがあるが、食事に関するもの、言語に関するもの、性に関するものなどが代表的である。食事については生後直後ないし一年程度から学習が開始される。言語についての脳の学習臨界期については種々の報告があるが、おおむね小学低学年である。性に関する学習については当然ながら第二次性徴の時期に開始される。

哺乳類の求愛行動全般を見るとかなり多様である。同じ種でも環境条件によって行動パターンが異なる例もあるらしい。
人間に限ってみても、求愛行動は各国種族により異なり、たとえば中国秘境の種族に関する婚姻習慣についての研究など、興味深いものがある。
求愛行動について、例外的習慣を興味本位で取り上げて拡大解釈する場合もあると思われる。

しかしながら、原則を言えば、第二次性徴期に、性ホルモンの影響で性行動に関しての脳の強い学習期が始まる。その時期の強い学習を「初恋」と定義してもよい。一度学習されたパターンは固定されて、その後の性行動を支配する。
従って、その人における愛はその時期に決定・固定される。その後に起こることは、その形式の反復であり、数式における代入に等しい。

この意味で、愛はひとつだけなのである。
何回も恋愛するように思っているとすれば、それは恋愛対象が複数になる不幸な例である。
恋愛対象は複数で変動的でも、その行動パターンを分析すれば、「常に複数で常に変動的である」という、「ひとつの変わらない」パターンが見えてくる。

ひとつには、パートナーが死亡するなど、不可抗力の場合がある。そのばあいには仕方がないしいつも相手を取り替えているわけではない。
詩人八木重吉の妻、登美子夫人が、歌人吉野秀雄の妻となった例。

他のひとつには、ただ一度の学習において、浮動性の恋愛を学習してしまった可能性がある。
恋愛対象を常に複数とする傾向や、恋愛対象を常に入れ替え続ける傾向と、愛の初期学習が結合してしまった場合は、不安性障害などの場合と同じく、愛の恒常性の障害と言える。

このように考えれば、やはり、愛はひとつだけである。愛は「ひとつで、変わらないもの」である。

言い換えれば、愛の対象はひとつとは限らないが、愛のパターンはひとつだけである。そして愛の対象が複数の場合は、不可抗力の場合もあり、愛の恒常性障害の場合もある、ということになる。

例外をあげれば、愛に関しての脳の強い学習臨界期が、複数回訪れる場合が考えられる。腫瘍の一部では、過剰な性ホルモンを産生する場合がある。その場合には、脳は第二次性徴期と同等な条件となり、愛についての強い学習が起こるだろう。
しかしこのようなことは当然、きわめて例外的である。
言語学習についてもきわめて例外的に多言語を器用に操るに至る例がある。その場合も、ある言語について完全に欠損なく運用できる場合は限られているように思う。個人的な体験では、ひとつの言語の習熟は、もう一つの言語の完全性の水準を低下させるようである。

Last updated May 28, 2006 11:13:16 PM

May 27, 2006
愛はただひとつである

ただひとつの愛

愛はただひとつであることを証明したいと思うようになった

人間がひとつの時間に物理的に存在できる場所はただひとつだけであるように
人間が愛することができる相手はたったひとりであることを
証明したいと思った

あまりに自明なので今までは証明したいなど考えなかった
わたしがいままで愛した人もこれから愛する人もたったひとりだから

たくさんの人の話を聞いていると、
世の中には浮気というものがあるという。
大変驚いた。
浮気などというものは原理的にあり得ないのだと思う
しかしそれを証明するとなると難しい
あまりにも自明だからだ

太陽がひとつしかないことを
どのようにして証明するというのか

二人とも好きというのは、
要するに、
嘘つきということだ。
愛の純粋性を裏切っている。

愛という言葉の意味が拡散してしまっているのだろう

逆に定義したい
一生にたった一度で、ずっと続く強い誓いのような祈りのようなもの、
それが愛だ
それ以外を愛とは呼ばない

そして愛こそは人間に備わった
最も深く高貴な能力である
だから愛は大切に扱う必要がある

May 26, 2006
EDを通してみる思いやり

50歳男性、脳梗塞のため身体に障害が発生し現在はリハビリ中である。障害のひとつにEDがある。

一般にED受容のプロセスとでも言うべきものがある。喪失体験の応用である。EDの男性はまずEDであることを否認しようとする。次に誰かを恨んだり、怒りを発露させたりして、そのあとで次第に現実を受容する。

典型的な最初の反応は、EDなんか問題ではない、である。問題にするおまえがおかしいと語り、さらにはおまえのせいだとパートナーを責めることまである。そのあとでやっと現実を受容する。

この50歳男性の場合には、かなり大きな失意の時期があり、そのあとで比較的早期に受容した。「わたしはEDであることはつらいが、そのつらさは、妻を満足させてあげられないことだ」と語る。
まずこの点だけでも偉い。

次に言う。
「妻は、わたしを性的に満足させられないことで自分を責めていると思う。自分の女性性に自信を失っているかもしれない。ちょうど更年期でもある。」
このように女性の側に立って、EDの問題を考えられる男性は少ないのではないかと思う。この点で偉い。

さらに語る。「セックスのことなどあからさまに話したことなんかないんですよ。ただ、若い頃からの積み重ねがありますから、あうんの呼吸ですね、話し合わないでも、お互いにちょうどよくできていたんです。」
ちょうどよくというのは、いろいろな意味でちょうどよくであろう。最近は、「言葉にして話さないと分からないことが多い、だから、もっとかみ砕いて、自分を説明する努力をしましょう」と説明することが多いのだが、性的領域に関しては、言葉だけでは不十分である。言葉も必要であるが、言葉以上のものも必要である。

お互いを思いやる心がこのように結晶して、長い期間にわたる夫婦関係が築かれる。自分が満足することと相手を満足させることがほぼ重なるように同時に達成されているらしいのだった。いい話を聞かせてもらった。

Last updated May 26, 2006 11:30:36 PM

ローで高速も走る

うつ病の人の性格を
自動車でたとえると
ギアをローに入れたままで
高速道路も走り続けるような
ところがある。
確実堅実だけれど
エンジンの負担が大きすぎる。

Last updated May 26, 2006 09:57:09 AM
May 24, 2006
おおばかなこさんのこと

拙著「こころの辞典」の編集当時
一緒に仕事をしていた仲間に
大場奏子さんがいます。
ご自分のことを
「大バカな子」と笑っています。
彼女はうっかりしていて東大の大学院を卒業しました。
東大の大学院まで出てしまうなんて
やっぱり大バカな子なのかもしれません。

Last updated May 29, 2006 12:08:20 AM

Last updated May 24, 2006 07:31:42 AM
May 23, 2006
客舎青青柳色新

元二を送る  <;王 維>

渭城の朝雨軽塵をうるおす
客舎青青柳色新たなり
君に勧む更に尽せ一杯の酒
西のかた陽関を出ずれば故人無からん

いじょうのちょうう けいじんを うるおす
かくしゃ せいせい りゅうしょく あらたなり
きみにすすむ さらにつくせ いっぱいのさけ
にしのかた ようかんをいずれば こじんなからん

渭城の朝雨軽塵をうるおす
客舎青青柳色新たなり

ここでぴったりピントが決まりました。
柳を愛でて歌うのは一種の伝統ですね。

Last updated May 23, 2006 11:26:07 PM
Apr 28, 2006
ヘンリ・ライクロフトの手記2 [ カテゴリ未分類 ]
ヘンリ・ライクロフトの手記から引用2

「自分の生涯は終わった」
暫くは殆ど恐怖に打たれる思いであった。何ということだ!ほんの昨日まではまだ青年であって、計画を立て、希望を抱き、実際無限の前途を望むように将来を眺めていた自分。あれほど元気にあふれ尊大に構えていた自分。それが今日はこうして動きのとれない回想に耽る身になってしまったのか?
自分には時間がなかったのだ。ただ準備をしていたばかりだった。
人の一生はこんなに短い空しいものであってよいのか?否、真実の意味に於ける人生は今始まったばかりである。しかし自分の前途に再び期待や希望が開けて来ることは決してないということは真実である。自分はすでに「隠退」したのだ。自分は辿り終えたその道程を振り返ってみることが出来る。それは何と詰まらない生涯であることだろう!
自分がこの世に生まれ、自分の小さい一役を演じ、そして再び沈黙の中へ消え去ることを、覆面の運命が命令したのだ。
かくも長い人生の旅路を、かくも安楽に終わったことは、有り難いことではないか?

—–
過去に得た経験を携えて、自分がもう一度、人生を始めることが出来たならば!なにか明確な、達成可能な理想を絶えず目標として。そして、実現の不可能な、労して益なきものを、厳にしりぞけながら。

Apr 28, 2006
ヘンリ・ライクロフトの手記 [ カテゴリ未分類 ]
ヘンリ・ライクロフトの手記、ギッシング著。中西信太郎訳。探したところ、昭和18年の訳者後記がついている岩波文庫版が出てきた。訳文もしっかりしており、内容もよい。他の翻訳もあり、岩波文庫新版のほかに新潮社版もある。
定価4.50円(税共)昭和21年発行。訳出しなかった章が二つあると断り書きがある。戦争中の訳出作業と、敗戦直後の出版。
友人との交流もなく、あえて交流を求めようともしない。静寂を好む。読書を好む。自然の散策を好む。昔の貧乏をかなり否定的な気持ちで、しかし誰かを責めるのではなく、静かに回想している。
紹介したいのは次の一節。

春の六の冒頭

このさき幾度春にめぐり会うことが出来るだろうか。楽観的な気持ちからすれば、十度とも十二度とも言えるだろうが、自分は控えめに、せめて五六度をと望みたい。それでも随分に沢山だ。いま五六回の春の季節、それを心嬉しく迎えて、キンポウゲがいち早く咲く頃から薔薇の蕾がふくらむまで、懐かしく見守って行く。誰がそれを乏しい恩恵と言い切るであろうか。大地が再び装われる奇跡。言葉に言いつくされたことのない豪華艶麗の光景。それがいま五六度、自分の眼の前に置かれるのだ。それを思う時、自分は余りにも多きを望んでいはせぬかと憚られるのである。

また次の一節は晩年の読書について。

自分は、まさか将来の生活のために、学識を積むわけでもあるまい。実際、忘れることはもはや苦にならないのだ。自分には過ぎて行く一刻一刻の楽しみが得られる。人間として、それ以上何を望むことが出来ようか。

Last updated Apr 28, 2006 10:06:36 AM