農耕文化と儒教道徳

農耕文化と儒教道徳の関係について

農業は毎年同じことを繰り返す面があるため、
経験が武器になりやすく、
「年配者」「年上」が尊敬の対象になりやすいのです。

だからこそ、環境の同じ温暖な農耕文化圏では、
こうした傾向をそのまま教えに織り込んだ
『論語』や儒教が受け入れられていくのです。
ベトナム、朝鮮半島、日本はこのよい例でしょう。
 

田植えの季節には、村中の人たちが一緒になって
川に近い田んぼからみんなで田植えをしていった、
協調こそが日本人が生きていく上での美徳となったのは、
そのためだろう。
農村で稲作をして暮らす日本人にとって一番こわいのは、
仲間はずれになることだった
若い子たちが「KY(空気読めない)」と言われて
仲間はずれにされることをひどく恐れるのは、
このような伝統のせいだろうか
一方、遊牧文化圏では、
「みなと違うことをする」
という真逆の価値観が尊重される、というのです。
たくさんの家畜に十分に草を食べさせるためには、
別の人間がすでに放牧したところには行ってはいけない。
つまり、モンゴルの遊牧生活では、
他人とはつねに違うことをしなければいきていけなかった。

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もちろん別な側面のあげられるわけで

たとえば農耕文化の中でも
新しい土地を開墾すれば大きな利益だし
新しい作物を植えることに成功すれば
ずいぶんと大きな利益でしょう

また遊牧文化でも
どの季節にどの土地にはいい草が多いとか
あのあたりには危険な動物がいるとか
寄生虫がどうしたとか
経験が生きる部分も多いはずです 

しかし総じて
経験と筋肉の相対的な力の関係はあると思います
多人数が生きていて農耕を組織的に実行している集団では
経験の方が重要でしょう

比較的少人数で経験の蓄積が少ない生活をするならば
むしろ筋肉の方が大切でしょう